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スイス:フリブール

小島 瑞生(こじま みずき)

職業…公務員
居住都市…フリブール(スイス)

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皇妃エリザベートの肖像画(1865年)

皇妃エリザベートの肖像画(1865年)

 バイエルン王国ミュンヘンで誕生し、16歳でハプスブルク家に嫁いでオーストリア皇妃となった“シシィ”ことエリザベートは、何度も映画化されたり、さらにはドラマやミュージカルにもなっているため、日本でもおなじみの人物ですが、特にその波乱に満ちた人生と悲劇的な最期でよく知られています。


エリザベートが命を落としたジュネーブのレマン湖のほとり

エリザベートが命を落としたジュネーブのレマン湖のほとり

 宮廷生活になじめず、旅をすることが多かった“放浪の皇妃”エリザベートは、スイスにも幾度となく訪れていますが、皮肉にも彼女の最期の地となったのもスイスでした。1898年9月10日、無政府主義者ルイジ・ルキーニ(ルケー二)に暗殺されてしまったのです。

 エリザベートにとって運命の日となったこの日、女官と一緒にお菓子を買ったり、孫へのお土産を買ったりしてショッピングを楽しみ、そしてアイスを食べた後、午後1時40分のジュネーブ発モントルー方面行きの船に乗るべく、湖畔の道を足早に歩いていました。

 その時、当時ジュネーブに在住していたイタリア出身ルイジ・ルキーニに、細く鋭いやすりで左胸を一撃されてしまいます。


暗殺現場にある『1898年9月10日、ここでオーストリア皇后エリザベート陛下が暗殺された』と記されたプレート

暗殺現場にある『1898年9月10日、ここでオーストリア皇后エリザベート陛下が暗殺された』と記されたプレート

 「誰でも良いから著名人を殺めたかった。それによって自分が世界から注目されたかった」と言っていたルキーニは、幼い頃親に捨てられ、ヨーロッパやスイス内を点々として生き延びてきました。

 元々の彼の計画は、イタリア国王ウンベルトを暗殺することでしたが、イタリアへ行く旅費はゼロ。そこでその日ジュネーブへ来ると言われていた旧王族のアンリ・オルレアンを標的にします。

 ところがオルレアンを見つけることができず、代わりにエリザベート皇后が犠牲になってしまったのでした。


没後100周年記念で建立されたオーストリア皇妃エリザベート像

没後100周年記念で建立されたオーストリア皇妃エリザベート像

 唯一エリザベート自身の手で愛情をかけ、育てられた末っ子の三女マリー・ヴァレリーは「母は“希望”と“喜び”という言葉を、永遠に自分の人生から排除してしまった」と、母親が暗殺される数カ月前の5月に書き残しています。

 そして母親エリザベートの訃報を聞いた時は「今までずっと母が望んでいたこと――素早く、痛みなく、医師の診察を受けることもなくこの世を去ること――がまさに起こった」と言ったのだそうです。
 
 さてルキーニのその後ですが、直ちに終身刑が決定し、ジュネーブの牢獄に収監されます。ルキーニ本人は斬首刑を希望し、他州(ルツェルン州)への移送依頼をします。というのも当時すでにジュネーブで死刑は廃止されていたからです。

 当然そんな彼の願いは叶うはずもなく、結局12年後の1910年10月に獄中で自死したのでした。



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