ブラジル

ブラジル:サンパウロ

大浦 智子(おおうら ともこ)

職業…フリーランス
居住都市…ブラジル国サンパウロ市

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サンパウロ市の移民博物館の移民祭りでモザンビーク料理を販売するアントニオさん

サンパウロ市の移民博物館の移民祭りでモザンビーク料理を販売するアントニオさん

 モザンビークは公用語がポルトガル語でありながら、ポルトガル語は外国語という捉えられ方が続いてきたそうです。

 アントニオさん(前々回のブログに簡単な紹介あり)によると、モザンビークの周囲を囲む国々は、大半がイギリスの植民地でした。ポルトガルは500年以上にわたってモザンビークの土地を植民してきたとはいっても、海岸地方に拠点を置き、金やヨーロッパで売れる物資を運ぶ以外に興味がなく、土着の人々の生活に介入する事はありませんでした。

 19世紀後半、ベルリン会議以降(1884から1885年)にヨーロッパ列強がアフリカを植民地とする争奪戦を繰り広げ、領土を確保するために、ポルトガルは現在のモザンビークの領土に国境線を定め、カトリシズム(ポルトガル語、カトリックとそこから派生する文化)を本格的にもたらし始めたそうです。それでも政府によって公教育が実施されたわけではなく、語学教育は一部のキリスト教会関係者が実行していただけで、多くの土着の人々はバンツー語を話し続けていました。


代表的なモザンビーク料理のマコフ(お皿のスープ状の料理)とポレンタ(お皿の白い主食)、バジア(奥の揚げもの))

代表的なモザンビーク料理のマコフ(お皿のスープ状の料理)とポレンタ(お皿の白い主食)、バジア(奥の揚げもの))

 モザンビークは1975年の独立以降、本格的に公教育がポルトガル語に統一されました。独立から40年を経て、公教育がポルトガル語で統一されてきた影響もあり、若い世代ではポルトガル語が優位になる人も目立ってきているそうです。それと同時に、西洋文化の影響を受けてアフリカ土着の文化を恥ずかしいと感じるような若者も時々いるそうです。

 ちなみに、モザンビークの周辺の国々はイギリスが旧宗主国である国が大半で、それらの国は公用語が英語でありながら、公教育では英語と土着の言語を維持する教育が実施されているのが、ポルトガルを旧宗主国とする国との教育方針の違いということです。


代表的なモザンビーク料理であるバジア。豆をつぶし練って丸めたものを油で揚げる

代表的なモザンビーク料理であるバジア。豆をつぶし練って丸めたものを油で揚げる

 今、モザンビークでは第一言語、第二言語、第三言語にバンツー諸語とポルトガル語を話せる人がほとんどです。しかし、ポルトガル語の中にバンツー語を借り入れたり、バンツー語の中にポルトガル語を借り入れたりというような形で両言語が存続しているそうです。

 例えば「私は畑に行きます」というポルトガル語は、
ポルトガルならvou ao campo.
ブラジルならvou a roça.
モザンビークならvou a machamba.
として使用されるのが一般的になっています。Manchambaはバンツー語で畑を意味してきました。
 他に、ポルトガル語とバンツー語を組み合わせた言葉の例として、
Pai wako(あなたの父)、Mai wako(あなたの母)
などがあります。


 もし、日本が英語を公用語にしてしまうと、モザンビークの様な言語事情に発展していく可能性もあります。アントニオさんによると、モザンビークでは言語体系の違うバンツー語とポルトガル語が出合って新しい言語が誕生したということはなく、二つの言葉が独立して存続しつつ、相互に言葉を借り入れる形で影響し合いながら、土地に合わせたポルトガル語とバンツー語が存続している状況が続いてきたということです。

 モザンビークに比べれば、ブラジルはあくまでもポルトガル語が基本です。世界各国の移民が国を発展させてきたということはあって、ポルトガル語に例えば日本語が借り入れられるような形でポルトガル語を豊かにしていると言えます。(近年では、手巻き寿司店が登場してテマケリアという言葉が生まれた)



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